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2006年04月24日
テレ・サンターナ - 「復活」
さあて、いよいよ「テレ・サンターナ追悼」を締めてみよう。
テレ・サンターナが90年にサンパウロFCの監督に就任したとき、クラブは州選手権で2部落ちしたばかりの憂い目にあった。テレ自身も、低迷したビッグクラブの指揮を執るリスクにためらいを隠せなかったらしい。
チームの再建のために全権を任せてくれるというフロントの熱意にしぶしぶ3ヶ月の試験期間を設けて承諾したらしい。決め手となったのは、クラブが郊外に有する広々としたトレーニング・センター(CT)だったらしい。テレは契約日の早朝、トレーニング用のグランドに行き、芝生を触りながら、その状態を確認していたという。
「このクラブで何ができるだろう。これまで、やったきたを超えるようなことができるだろうか。そうだな、ここにいる選手全ての能力を最高のレベルに押し上げることができれば面白いな」。ひょっとして、こんなことを彼は考えていたのかもしれない。それから、なんとテレはこのCTの宿舎を寝床にし、24時間チーム育成に勤しんだらしい。
このころサンパウロFCには、80年代後半からのベースが残っていたが、それでも多くのベテラン選手たちがクラブを去っていった時期にあった。CBダリオ・ペレイラ、中盤の要シーラス、日本でもお馴染みFWのカレッカ、それにローマから移籍した我がアイドル、ファウカンなど。
そもそもサンパウロFCというクラブは80年代から、革新的といえるほど安定的なチーム運営を打ち立てていた。「タイトルが獲れようが、獲れまいが、チームベースは決して解体しない」という、毎年スタメンがガラッと変ってしまう当時のブラジルのクラブ事情では珍しい運営の仕方であった。そんなクラブの方針もテレの意に沿ったのだろう。
チームの中心的選手だったMFライー、MFレオナルド、CBロナウドン、CBヒカルド・ホッシャ、FWミューレルに加え、下部組織からカフー、ゼッチ、マセード、エリベウトンなどを昇格させた。90年10月に就任してから、翌年前半、さっそくサンパウロ州選手権を優勝、同年のブラジル選手権も優勝。

サンパウロFC1991:
上段:ゼッチ、ロナウドン、レオナルド、ヒカルド・ホッシャ、ゼ・テオドーロ、アントニオ・カルロス・ザーゴ
下段:ミューレル、ライー、マセード、ベルナルド、カフー
92年には、中盤に大ベテランのトニーニョ・セレーゾ、FWのパリーニャなどを補強し、南米クラブ選手権リベルタドーレス杯を優勝。年末のトヨタ・カップではクライフ率いる黄金時代のバルセロナにも勝利。

-ライーのFKで勝負が決まる-
試合後、敗将クライフはこういった-「どうせ車に轢かれるなら、フェラーリにハネられた方がいいさ」、彼らしいかっこいい賛辞だ。

サンパウロFC、トヨタ・カップ1992:
上段:アジウソン、ゼッチ、ロナウドン、ビートル、ピンタード、ロナウド・ルイス、トニーニョ・セレーゾ
下段:ミューレル、パリーニャ、カフー、ライー
翌年の93年には、またしてもリベルタドーレス杯を優勝。トヨタ・カップでは、カペッロ率いるミランに勝利。たった2年で名実ともに世界最強と呼ばれた。

サンパウロFC、トヨタカップ1993:
上段:ゼッチ、ヂーニョ、ロナウドン、カフー、レオナルド、トニーニョ・セレーゾ
下段:ミューレル、ドリーバ、ヴァウベル、パリーニャ、ロナウド・ルイス
94年には、再度来日しレコパ優勝(リベルタドーレス杯勝者とリベルタドーレス・ウィナーズ杯勝者の対決、いまはもうない)、テレ・サンターナはたった3年で、クラブ・レベルで手が届くすべてのタイトルを獲得し、「タイトルとは無縁」というレッテルを払拭した。

-復活の道のりは長かった-
やがて、このスーパーサンパウロを打ち負かすことになったのが、パルメイラス率いる新鋭ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴだったことも、今となっては興味深い。
サンパウロFC時代のテレ・サンターナの逸話は限りなくある。毎日、誰よりも早くグランドに行き、芝生のコンディションを確認したという。そして、その日のトレーニング・メニューをこなしたあとも、一部の選手とともにグランドに残り、彼らに個人レッスンを施したという。
この個人レッスンはあまりにも有名である。たとえば、中盤の選手としてデビューしたカフーを見て、テレは「君の資質なら、素晴らしい右SBになれる」といって、毎日、カフーに居残りをさせてクロスボールの入れ方の手ほどきをしたという。その結果について、いまや世界中が知っている。
足のここに当てろとか、通常、チームの監督がやらないような、細かい手ほどきをしたらしい。あっしも実はデビュー時のジュニーニョ・パウリスタがテレにシュートの仕方を教わっているのを生で見たことがある。それはまるで、プロというハイレベルな世界のことではなく、父親が幼い子にサッカーを教えているような光景だった。足のどの箇所でトラップして、どの箇所でシュートすればいいのか、自らひざまずきジュニーニョの足を手にとって「足のここじゃない、ここに当てるんだ」とやっていた。方やサッカー史に残る大監督、方や数年後セレソンの10番を競うことになる中学生の体型をしたプレーヤー。沈む太陽を背に、二人のシルエットが休むことなく躍動していたことに、感動した。
選手の才能を見抜くだけではなく、選手自身が知らなかった能力までをも引き出せた、と彼の指導を受けた選手たちは口を揃えて言う。テレの隠れたチューニングが選手たちに施されてからというもの、ライーのロングシュートや、ミューレルのクロスの精度など、チームの技術が飛躍的に安定した。

94年W杯でなぜ、当時最高のミッドフィルダーとされていたライーが本領を発揮できなかったのか、人々はいまでも不思議に思っている。それは、単純な話、テレ・サンターナのもとでの悠々とプレーしていたクラッキの残像が人々の脳裏あったからではないだろうか。そのギャップに一番驚いたのは、当時の代表監督をつとめたパヘイラ自身ではなかっただろうか。彼には、ライーという特異な才能に“創造の自由”を与えてやる器量はまだなかったといいたい。次のドイツW杯でパヘイラ自身、タレント集団を率いてテレ・サンターナの領域に挑戦してほしい。
「11人のクラッキでチームを編成することは、11人の平凡で従順なプレーヤーたちでチームを作るよりも難しい。だから、やりがいがあるんだ」
テレはまた選手達のピッチ外でのふるまいにも気を配ったという。とくに金の使い方のアドバイスをよくしてやったらしい。今はそうでもないらしいが、少し前のブラジル人プレーヤーたちは大金を受け取ると、何も考えずに使い切ってしまうか、または上手い話にそそのかされて金をだまし取られることが殆どだったという。
トヨタ・カップでも名を馳せたFWパリーニャとテレの確執は有名で、テレの故郷ミナス州出身のパリーニャを我が子のように可愛いがっていたテレだが、パリーニャの浪費癖が試合でのパフォーマンスに影響していると見るや、きつく叱った。あげく、二人は決別してしまった。
テレがなぜ、すべてのサポーターから尊敬されたのか、次の言葉をからもわかるかもしれない:
「私はオールド・スタイルの人間なんだ。ゲスな選手は、どんなに上手くても私のチームには入れないよ」
「もし、ウチのプレーヤーが相手を後ろからタックルしようものなら、審判はレッドカードを出す必要はない、私がその前に交代させるから」
「フィジカル・サッカーがそんなにいいなら、港の荷揚げ労働者を11人雇えばいいじゃないか」
「サッカーが好きなんだ。空き地の草サッカーでも見にいくよ」

ADEUS MESTRE!
投稿者 fhasebe : 23:53 | コメント (32) | トラックバック
2006年04月23日
テレ・サンターナの残した物
テレ・サンターナの悲報を聞いたとき、走馬燈のように、テレが指揮したチームが次々と頭に浮かんだ。テレ・サンターナはあっしのサッカー観戦人生において、あまりにも大きな位置を占める。
まず最初に浮かんだのが、はじめてテレ・サンターナのチームを観たとき、79年のパルメイラス。このチームは78年W杯メンバー、FWジョルジェ・メンドンサを要していたスーパーチームだった。
パルメイラス1979。

上段:ホゼミーロ、ジウマール、ベト・フスコン、イヴォ、ポロッジ、ソーテル、下段:アミウトン、ジョルジェ・メンドンサ、トニーニョ、ピレス、ネイ。(中盤の要ジョルジーニョ、とFWバロニーニョが残念ながらいない)
このチームは79年ブラジレイロン準決勝(当時はホーム&アウェーによるトーナメント方式だった)でファウカン要する我がインテルナショナルに敗れたが、2ndLegのパカエンブー・スタジアムで行われた試合はあっしが生涯観た最高の試合の3つのうちの1つに入る。いまの世知辛いサッカーとは違い、両チームとも、それぞれのスタイルを全面に出し、相手の攻撃を受けてたつ。まるで、鉄砲が発明される前の戦に例えられるような、巨人たちの剣のぶつかり合い、壮大なる激戦、ギリシャ神話のエピックと呼ぶにふさわしい。
当時のインテルの監督はエニオ・アンドラージ。このとき、テレ・サンターナがたった1年で作り上げたチームの凄さに子供ながら感心した。以来、テレの名前はあっしの記憶に焼き付いた。実は、後になってテレは77年グレミオの指揮をとり、当時無敵だったインテルを州選手権で破っていた事を知る。チキショー!残念なのは負けたことでなく、テレが一度も我がインテルナショナウを指揮しなかったこと。
もともと右ウィングとして50年代フルミネンセで活躍したテレは62年に引退。67年に同クラブの育成部を指揮。69年にトップチームの監督に就任。71年には故郷の名門アトレチコ・ミネイロで全国制覇。前述のパルメイラス時代ではタイトルこそなかったものの(リオ州にはジーコ、ホベルト・ジナミッチ、サンパウロ州にはソクラテス、ゼ・セルジオ、ミナス州にはトニーニョ・セレーゾ、ヘイナウド、そして南部からはあっしの永遠のアイドル、ファウカンといった英雄たちが競い合い、誰が優勝してもおかしくない、ブラジレイロンの黄金期だった)、いかにテレ・サンターナが高い評価を得たかは、翌年、セレソンの監督に抜擢されたことで証明された。
そして81年のセレソン、いわゆる82年の伝説のセレソン-あっしにとって、この世で最も美しくプレーしたサッカーチーム-のベースとなるチームなのだが、81年にウルグアイで行われたゴールド・カップ(ムンディアリットと呼ばれた、実際は80年12月から81年1月にかけて行われた)に登場したチームは凄かった。優勝こそ逃したものの、そこで呼ばれた選手たちが凄かった。
81年のムディアリットは、FIFAワールドカップ50周年を記念するミニW杯大会(今でいうコンフェデ杯)で、W杯発祥の地ウルグァイで行われ、W杯経験国であるウルグァイ、ブラジル、アルゼンチン、ドイツ、オランダ(イングランドが辞退したため)とイタリアの6チームで行われた、いわゆるマスターズ大会(ディエゴ・マラドーナのA代表でのお披露目もあった)。この大会に参加したセレソンは凄かった。

写真は南米予選のもの(ムンディアリット後、1981年2月22日、対ボリビア戦)。上段ヴァウジル・ペレス、ルイジーニョ、オスカール、エジヴァウド、トニーニョ・セレーゾ、ジューニオル、下段:チッタ、ソクラテス、ヘイナウド、ジーコ、ゼ・セルジオ。
ファウカンが呼ばれていないのは、イタリアのローマでシーズン中だったから。右SBレアンドロもまだいない。なんといっても、MFチッタ、FWヘイナウド、Wingゼ・セルジオの3人のクラッキがいるのが興味深い。当時最高のFWヘイナウド、81年優秀選手ゼ・セルジオ(いまサンパウロFCのユース・コーチだそうだ)の二人は怪我で82年W杯に参加しなかった。つまり、あの“黄金のカルテット”は4人ではなく、もっといた。可能であれば、テレは彼ら全員をスペイン大会に連れていっただろう。
ゼ・セルジオというサンパウロFCでプレーしていた選手は、日本でも知っている人がいるが、リベリーノの従兄弟で、フットサル上がりの凄いドリブラーだった。彗星のごとく出現した彼こそが「フットサルの経験がフルコートで活きる」ことを最初に認知させたプレーヤーだと記憶している。
82年のセレソンについて、何を言えばいいのだろう。敗退したイタリア戦でも、引き分けでよかったセレソンだが2-2のときでも、勝ちにいった。「82年のブラジル代表は守備がなっていなかった」勝手に言わせとけ。試合後、控え室でテレ・サンターナは選手たちに「胸をはれ、お前たちは世界最高のサッカーを披露した」と言った。
翌日、帰国するためにバルセロナの空港に行ったセレソンは、空港を埋め尽くすファンたちに囲まれたそうだ。W杯で負けたチームがいつ、こんな祝福をうけた?当時について、世界中のサッカー愛好家は言う“82年の敗北はブラジルの敗北ではない、サッカーの敗北だった”と。カラザンス氏の言葉では「美しくプレーしても勝てない、と世界中が間違った結論に至った」。あの分岐点から今まで、ずいぶんと遠ざかったものだ。
「82年に優勝したイタリア・チームのスタメンを言える人は世界でどれだけいるのか?でも、私は82年のセレソンを忘れないよ」この言葉は74年に同じように不遇な目にあったオランダ代表のキャプテン、ヨハン・クライフのものだ。
クライフの言葉は偶然ではない、テレ・サンターナは74年のオランダ代表をみて、いかにクラッキたちに“創造する自由”を与えるべきかを学んだという。ついでに言えば、テレの申し子であるジーコも、日本代表で同じことを試みたが、選手からもマスコミからも世論からも理解されていない。74年から32年経ったいまでも、日本サッカーはその域に達している兆しを見せない。だからといって、それは問題ですらない、なぜなら、いまのサッカーでそれを実践できるチームは皆無だから。
いま創造の自由を与えられ、それに応えることのできるプレーヤーは片手で数えられるぐらいかも。20年ほど前はどのチームも絶対的なクリエーターがいなければ存続できなかった。いま選手たちは“命ぜられた役割”をこなす、現代のサッカーは競技の名において質的に、どれほど“貧しく”なったのだろう、それともディフェンダーが進化したのだろうか。ときには、足から足へとボールが行ったり来たりする単なるアホなスポーツに成り下がった気がする。いちばん笑えるのは現代のヘタクソ選手たちが、過去の芸術家たちの100倍近い年俸をもらっていること。
さらに86年のW杯でも敗退したテレ。これで、完全に“負け犬”のレッテルがついた。結局、ブラジル国内でも、最高のジェネレーションを要してなお無冠に甘んじた代償は高くついた。いや、テレ・サンターナを葬る寸前にまで至った。

1986年W杯チーム。上:ソクラテス、エウゾ、ジュリオ・セーザル、エジーニョ、ブランコ、カルロス
下:ジョジマール、ミューレル、ジューニオル、カレッカ、アレマオン(ファウカン、ジーコはベンチ)
それでもテレは自身の信念を曲げなかった「つまらない試合をして勝つぐらいなら、素晴らしい試合をして引き分けた方がいい」。監督として最悪の危機に晒されながらも、テレ・サンターナは理想を諦めるどころか、サッカー人生の集大成となる90年代前半のサンパウロFCに着手する。(次のエントリーに続く)
投稿者 fhasebe : 13:09 | コメント (6) | トラックバック
2006年04月22日
テレ・サンターナ逝去
“ワールドカップは優勝するためにある大会じゃない、世界最高のサッカーを魅せるためにある”
“最高の称号を手に入れたければ、相手が誰だろうと、前にいけ、攻撃するんだ。”
テレ・サンターナ、2006年4月21日午前、没世。
あっしらの世代にとっては、永遠に記憶に残る最高の監督。
フッチボウ・アルチ(芸術サッカー)とは何か、美しく強くプレーすることは何かを教えてくれた“すべての父”。
ブラジル・サッカーの美が伝承されているのも、この人によるところが大きい。
引退してから、はや10年以上。いま、雲の上の人になられた。

投稿者 fhasebe : 09:51 | コメント (2) | トラックバック
2006年04月18日
「なぜブラジルは良い選手が生まれるのか?」
いやあ、MASATOさんのコメントから、当タイトルの質問を頂いたのですが、返事をしていたら、長々と書いてしまったので、エントリーにしちゃいました。
“何故ブラジルからあんなに素晴らしい選手が、湯水の如く次々出て来るのでしょうか?
サッカーが盛んな国は、ブラジルだけではないですよね。また身体(運動)能力は、ブラジルと比べてヨーロッパもっと言えばアフリカだって劣っているわけではないですよね(もちろんサッカーは身体能力だけでやる物ではないですが)。”
興味深いアプローチですよね。返答は以下:
MASATOさん、こんにちは。
その質問、ふと思ったのですが、よく考えればヨーロッパの人々の方が誰よりも疑問に思ってるかもしれませんね。
だって「こっちの方が、さらに伝統もあるし、設備や環境も整っているのに、世界で一番投資しているのに」といった悔しさ混じりの疑問を感じとれる。それで、彼らが至る結論は「南米の“土壌”には、魔力がある。あそこは、宇宙の法則かなにか、不思議で天然な力のおかげで、クラッキが生まれる」。なんて、口には出さないけどそれぐらい考えている。
こういった短絡的な見方は、日本の体操やバレーも「東洋の神秘」なんて言われましたしね。たとえば、今の現象のひとつに、なぜオランダは次から次と良い監督を輩出するのか?といった質問にもつながりますし。
これに対し、レオン監督は同業者すべてを指して「ブラジルには世界最高の指導者がいるから、良い選手が生まれる」と言いました。じゃあ、ブラジルの指導者をヨーロッパに連れて行けば、凄い選手が出現するのだろうか。
ちょっと難しいかも。映画『Ginga』を観たら、アマゾンの密林のなかでプレーする男の子たちまで、メチャクチャ上手い。技術ウンヌンじゃなくて、サッカーを楽しむ術を知っているという感じ。
W杯名物監督のボラ・ミルチノビッチ(名前、正しいかな?)が、リオのビーチでボールを蹴っている子供たちを見て「こいつら11人を俺にくれ。そしたらワールド・カップを優勝してみせる」と言ったのも憶えてます。
なぜ、こんなにもクラッキが輩出されるのか、正直なところ、あっしにも良く分からない。
あ、それと、あっしの崇拝するトスタン氏のコラムで、
アフリカ・サッカーについて、こんな風に書いてました:
「ヨーロッパ・サッカーは興業的に大成功を収め、世界中にその影響力を広めている。その影響の最たるものが、未来のサッカーを担うと期待されたアフリカ・サッカーの“ヨーロッパ化“だ。
先のアフリカ・カップでも見られたが、ほとんどの代表チームの監督はヨーロッパ人で、完璧なヨーロピアンスタイルの戦術に染まっていた。アフリカはもはや、自分たち本来のサッカーを失いつつある。
南米にとって幸いだったのは、ヨーロッパの影響が大きくなる前に、自分たちの伝統的なスタイルを確立できたこと。」
と、深ーい考察がありました。だからといって、アフリカが弱くなったという事ではないですが、昨年末日本代表と対戦したアンゴラ代表なども、どこかのヨーロッパのチームと間違えるほど、組織的なプレーをしていた。80年代からアフリカは第3のプレースタイルを確立すると、“芸術愛好家”たちに期待されていただけに、ちょっと残念な感じです。
ヨーロッパの影響。映画『GINGA』でも、サンパウロのポルトゲーザというクラブの入団テストを行うコーチが「フィジカルの弱い子は取らない。どんなに上手くてもね。採点は技術面30%、フィジカル面70%」と言っていた。一応、最後に「天才なら、別だけど」と付け加えていたけど。
02年W杯で活躍したエジウソン(元柏)のような背の低い選手などは、今の時代じゃあ、もう無理なのだろうか。エジウソンがグァラニで出現したときは、もの凄いアタカンチで、ひょっとして現役のころのペレはこうだったのかな、とすら思えた。
こうしたトレンドは、明らかにヨーロピアン・スタイルの影響だろう。
スペースを与えないプレッシング・サッカー、激しいボディ・コンタクト、常に連動しながら、止まることなく走れる運動量。ますます増えるばかりの試合数。そしてなんといっても、クラブの財政を潤してくれるだろう、ヨーロッパ市場向きの選手に投資を優先させたい。
一昔前なら、エジウソンのような選手が出てきて、背の高い選手の股の間を抜きまくり、「フィジカル神話」を打ち崩してくれた。昨シーズンも、試合中ずっとコリンチャンスのマスケラーノとセバの股の間にボールを通して、ニヤニヤと遊んでた。ありゃあ、アルゼンチン選手には痛烈な洗礼になったな。
経済大国の影響による「資源の消失」、「森林伐採」は何もアマゾンだけじゃない。(環境保護者に怒られるかな)。
ヨーロッパで行われているサッカーが本当に最高なのか?チャンピオンズ・リーグはクラブレベルで世界最高の大会なのか?市場原理でいえばそうだと認めざるをえない。だが、あっしはそれを鵜呑みにしてはいない。世界は広い、それぞれの国が自分たちのスタイルを打ち出している。(だから、ブラジレイロンを放映してほしいのね!)
ところで、日本サッカーはどうなるのでしょうかね。すでに独自のスタイルを築いたと言えるでしょうか。
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結局、説明はつかないですけど、このテーマは面白すぎます。
投稿者 fhasebe : 16:09 | コメント (10) | トラックバック
ブラジル好きならブラジレイロンだろ!
ラモスの昔のコマーシャル「日本人ならお茶漬けだろ!」にちなんだタイトルです。
別に怒ってません。でも、悲しいかな、今年もやっぱりブラジレイロン(ブラジル全国選手権)の放映は無いのね。
街はブラジルの情報で溢れているというのに。
ワールドカップ景気とでもいいましょうか、日本代表と対戦するという期待感、ネコも杓子も4年に一度サッカーに興味を示すシーズン到来ですものね。このブログの“最高瞬間視聴率”も昨年のコンフェデ杯のブラジル×日本でしたから。
いま、なんといっても雑誌の特集が凄いマニアック。どこもブラジル・サッカーをかなり、取材している。
先週買ったのが、これ:
日本文化出版社『ドリームイレブン』。正確には、ムックだそうです。
初回ワールドカップから、すべてのブラジル代表チームをリストアップしていて面白い。あっしも勉強しようっと。http://www.nbp.ne.jp/dream11/

今週はこれ:『バーサス』(光文社)
写真が綺麗だなー。それに、ソクラテスや歴代のセレソン・スターたちへのインタビューがあり、なかにはパルメイラスの永遠のアイドル、アデミール・ダ・ギアが紹介されていた。彼は世界的には知られていないが、60年代から70年代にかけて、サンパウロ州のサッカーでペレと双璧と言われた。ブラジル人選手がクラブと強い絆で結ばれていた時代の偉大なスーパースター。
サンパウロ州といえば、サンパウロFCのトレーニング・センターが紹介されている。いまブラジル・サッカーでトップ・クラスの施設を有するのがここらしい。

http://web-vs.com/pc/info/index.html
そして、いよいよロードショーの始まった映画『GINGA』。さっそく観てきました~!
内容はすごい!この一言につきる。ネタばれはしませんので、ご安心ください。でもやっぱり、ブラジル・サッカーの奥深さを知ることができたね。映画館はガラガラだったけど。
そんなことで、ブラジルサッカー情報はこんなに蔓延しているのに、昨週末はじまったブラジル選手権が放映されないのは、やっぱりおかしいよ。
ブラジル・サッカーは映画の題材にさえなっているのに、ブラジル国内のクラブの戦いは放映されない。アルゼンチンやドイツ、フランスとかのリーグは放映されているのに、なぜ世界一創造的なサッカーの国の選手権が観れないのか、納得が行きませんねえ。
放映権が割高なのかな?それとも、グローボというテレビ局一手に放映権が集中していることが、まさか、支障になっているとも考えられる。どうせ何か、ナンセンスな理由で我々ジャパニーズ・ファンたちはブラジレイロンを観れない気がしなくもない(一応、スカパーのブラジル専門チャネルではポルトガル語で週数試合を放送しています)。
まあここは、リベルタドーレス杯で我慢しろということか、幸いにもブラジリアン・クラブは6チーム中5チーム(パウリスタは危うい)ぐらいがベスト16に進むようだから、往年よりも楽しめる。
しかし、いま、ブラジル・サッカーに関する過剰気味のこの情報提供も、W杯が終われば、またピタッと終了してしまうのは、火を見ることよりも明らかでしょうな。
先日ファウカンの話をしたましたが、彼の前に存在したのが、アデミール・ダ・ギアとも言われる。“O Divino(聖なる人)”と呼ばれたパルメイラス・サポーターの永遠のアイドル。いま、フジ739(ケーブル)で放映中の74年ドイツ大会の3位決定戦に出場したらしい。観てみる。
なんと、このエントリーを書きながら調べていたら、彼のドキュメンタリー映画がいま向うで放映されているそうじゃないですか。次のリンクでトレーラーが観れます。別にスペタクル・タイプの選手じゃないので映像からは驚きはないが、出てくるジャーナリストたちが興奮気味に言うように「エレガントに、まるでバレーを踊っているかのように、プレーしていた」、「彼にボールが渡るとき、スタンドは静まった」、「彼は、相手のチームまでをも自分のリズムに服従させてしまう」。
どれだけ凄かったんだろうね?トレーラーのリンク:
http://www.zagg.com.br/fotos/divino.wmv
古き良き時代のサッカーの象徴。60年と70年代、サンパウロの少年達の記憶に永遠に刻まれた聖なるアデミール・ダ・ギア。

投稿者 fhasebe : 01:13 | コメント (13) | トラックバック
2006年04月11日
負けたあ…
インテル、州タイトル逃す。
決勝戦でグレミオ相手に引き分け。アウェーで0-0、ホームで1-1、
アウェーゴール方式で優勝カップは憎きグレミオへ。グアッ
これほどインテル優勢のグレ・ナウは過去にも無いと言われていた。だからこそ、あっしは嫌な予感がしたんだな。
でも、何が悲しいかって、試合を観れないから、実感が沸かないこと。あ~あ。
ベイラ・ヒオの男たち。

ちなみに、試合スタッツ:
Internacional 1 x 1 Grêmio
Inter
Clemer
Ceará
Bolívar
Ediglê
Rubens Cardoso
(Rafael Sobis)
Fabinho (元ガンバ、元清水)
Tinga (元川崎フロンターレ)
Mossoró
Iarley
(Rentería)
Fernandão
Michel
(Perdigão)
Técnico:
Abel Braga
Gremio
Patrício
Pereira
Evaldo
Escalona
(Tcheco)
Jeovânio
Ramon
(Pedro Júnior)
Lucas
Wellington
Marcelo Costa
Ricardinho
(Nunes)
Técnico:
Mano Menezes
Gols
13min - 2° tempo
Fernandão
33min - 2 ° tempo
Pedro Júnior
Local: Estádio Beira-Rio, em Porto Alegre (RS)
Árbitro: Leandro Vuaden (RS)
他州はサンパウロ州はサントス。ルーシャおめでとう!リオ州はボタフォゴ。ミナス州はクルゼイロ。パラナ州はパラナ・クラブ。みんな、よかったねえ。
インテルナショナル、引き続きリベルタドーレス杯に登場しますから、気にかけてやってください。
投稿者 fhasebe : 11:40 | コメント (2) | トラックバック
2006年04月08日
CLで作れちゃうセレソン
本当は、いよいよ日本でも放映がはじまるリベルタドーレス杯に向けて資料集めしている今日この頃なんですけど、やっぱりは話題はチャンピオンズ・リーグになっちゃいます。
しかし、CLもベスト4決めとなると、緊張の多い試合ばっかりになりました。うーん、正直、あまり面白い試合はなかった。どれも、ガチガチで…
まあ、そもそも、あっしが観るときはブラジル人プレーヤーを注目するためだから、いつでも楽しめるけど。
それで、今回はひととおり観て、ベスト8のチームから、マイ・セレソンを作ってみることにした。
つまり、ヨーロッパ随一の大会のファイナル・ステージで、こんなことが出来ちゃうブラジルのサッカー選手の層の厚さを自慢したいわけよ。まあ、アルゼンチンもできるけどね。
それで、こんなことやって気づいたのは、いまのセレソンの監督も「人集め」という観点では、いたって簡単だな、ということ。だって、CLを見るだけで、これだけのメンツが揃うんだから。まあ、見て下さい、あっしのセレソン:
フォーメーション:4-2-2-2
GK:ジュリオ・セーザル=Inter(ジーダ=Milan、モレット=Benfica)
右SB:ベレッチ=Barcelona
右CB:ルイゾン=Benfica(クリス=Lyon、アウシージス=Benfica)
左CB:カサッパ=Lyon(アンデルソン=Benfica)
左SB:セルジーニョ=Milan(レオ=Benfica、シウビーニョ=Barcelona)
ボランチ:エメルソン=Juventus(ジウベルト・シウバ=Arsenal、エジミウソン=Barcelona、モッタ=Barcelona)
セカンド・ボランチ:ジュニーニョ・ペルナンブカーノ=Lyon(ベト=Benfica)
左MF:ロナウジーニョ=Barcelona
右MF:カカ=Milan(ジオバンニ=Benfica)
右FW:アドリアーノ=Inter(アモローゾ=Milan)
左FW:フレッジ=Lyon(マルセウ=Benfica)
番外:デコ=Barcelona、マルコス・セナ=Villareal
ってな具合で、23人以上になるから、ばっちりW杯グループが組めちゃう。ベンフィカのGKモレット、全然無名だったけど、あの“天然ボケ”プレーが好きになっちゃったなあ。
こんなこと思いついたのも、実はセレソンでもう活躍することのない、ある素晴らしい選手をライナップに加えたかったから、やってみた。
その名は、セルジーニョ。一部では、現在最高のブラジル人左SBと呼ばれている。
ミラン所属の彼は、ずいぶん前からマルディーニまたはカラーゼの控え、または中盤のサイドハーフとして試合の途中しか使われてこなかったが、今季ミランでは、マルディーニの怪我もあり、左SBのレギュラーにいる。

1971年、リオ郊外の町ニロポリス生まれのセルジーニョは意外と遅咲きで、93年22歳でイタペルーナという小さなクラブからプロデビュー。94年フラメンゴ、バイーア、95年クルゼイロと名門を渡り歩いたのち、96年にサンパウロFC入り。ここで左サイドバックとしてチームの中心選手となり脚光を浴びる。99年にミランへ10億円で移籍。
セルジーニョがセレソンに呼ばれないのには経緯がある。彼がセレソンに招集されるようになったのは、98年W杯後。99年のコンフェデカップではルシェンブルゴ監督のした左SBのレギュラーを務めた。01年にはフェリポンが立て直しをはかったセレソンに一度は呼ばれるものの、母の病気を理由に次の機会を辞退し02年W杯に参加するチャンスを失う。
そして、極めつけは02年W杯の後、暫定監督のザガロ(その後、パヘイラが監督に就任し、ザガロはテクニカル・コーディネーターに)の招集に対し、セレソンに二度と招集してほしくないと自ら直訴。その理由は年齢的に見切りをつけたなどと報道されたが不透明のまま。
しかし、これには協会側もカチンときた。ザガロは当時「招集の可否は、いつも選手と電話で事前に確認している、リストの発表後に断ってくるなんて失礼な奴だ」。セルジーニョはもうカナリア色のユニフォームを着ることはない。
しかし、いま34歳のセルジーニョのプレーのシャープなこと。するどいナタのように、左サイドをドリブルで切り裂いていき、相手DFのマーキングを完璧にずらしてから、ポンポンとクロスを入れていく。とくにカウンターになると、早く、低めで、バウンドしながらファーで合わせる感じのクロス出すのだが、これがカッコイイ。
次のバルサとのマッチアップでは、サンパウロFCの元同僚のベレッチとの対決になるかもしれない。
ロベカルの代役が課題のセレソンにとって、セルジーニョという選択肢があってもよかったのにな、しゃあねえ。
左サイドの芸術家

投稿者 fhasebe : 02:11 | コメント (10) | トラックバック
2006年04月05日
ベルナベウ・ザ・ムービー
もしも、あなたがサッカー好きであり、20%だけの良い場面のために、一つの映画を観ることができる人なら『レアル・ザ・ムービー』は観る価値があるかも。
あっしは上の条件にあてはまったから観た。そして感動した。
そもそも、なぜブラジル・サッカー専門ブログがスペインの名門クラブの映画の話、と思われそうだが、ブラジル・サッカーと大アリも、大アリ、この映画には、現在サントスを指揮するルシェンブルゴの仕事ぶりが見事に記録されているのである。
そして、満員のサンチアゴ・ベルナベウで観客が総立ちでゴールを祝うシーン。このシーンをピッチレベルから映しているのである。それを壁一杯の映画スクリーンで観るんだから、まるでもう、自分が芝生の上にいるような気がして、鳥肌がたった。
マドリー・ファンじゃなくても、凄い映像。ロナウドやホビーニョたちは、こんなとこでプレーしてるのかあ…
Estadio Santiago Bernabeu

なにかと、マドリディズモについて批判してきたあっしですが、実はマドリディズモのことなんか、全然わかっていない。スペインに行ったこともない。でも、ベルナベウには必ず行くことになりそうだ。
ネタバレは避けるつもりだが、映画の進行は昨シーズン後半の「レアル×バルセロナ戦」へと導く。このときの監督はヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ。
映画開始早々、エル・クラシコに向けてルーシャ(ルシェンブルゴの愛称)とスタッフ陣の打ち合せが始まる。このスタッフとはセカンド・コーチのマルコ・テイシェイラとフィジカル・トレーナーのアントニオ・メロの3人。全員ブラジル人。
ちなみに、いまサントスの監督を務めるルーシャのフィジカル・トレーナーも、同じくこのアントニオ・メロ。それに、ルーシャのセカンド・トレーナーは「ルシェンブルゴ校出身者」とブラジルでは言われ、現在FC東京のガロ監督もそのうちの一人。そもそもルーシャがレアル就任のときに、セカンド・コーチに呼ぼうとしたのがガロだった。
そして、このエル・クラシコの最大のキーポイントとなったのが、それまでレアルで不動の10番だったルイス・フィーゴのスタメン落ち。なんと、映画では、このときの決断について、ルーシャがブトラゲーニョとサッキに相談しているではありませんか。3人の会話のシーンだけでは、何のことかよく分らないが、内容からしてまさしく「フィーゴ外し」について議論していた。
練習場でのルーシャは、スペイン語とポルトガル語の混じった、もうメチャクチャのチャンポン語を話しているのがわかる。映画館で一人で腹を抱えて笑ってたあっしだが、近くに座っていた大学生風の女の子は気味悪かっただろうなあ。
あっしの記憶では、当時ロベカルがマスコミに「ウチの監督のスペイン語のヘタッピさときたら、ヒドイのなんのって、ギャハハ!」と大いにおちょくってたのに対し、ルーシャ本人は「チキショウ、俺だって恥ずかしいけど、いつかキチンとスペイン語をマスターしてやる」なんて悔しがってたっけ。
極めつけの映像は、ベッカムとの会話。あのとんでもない英語で指示しながら、途中で単語が出て来なくなると、勝手に笛を吹きはじめたりして、それでもベッカムはウンウンと頷いてるんだから、結構いい奴だ。
やがて、クラシコ当日のミーティング。このとき、ルーシャが行った言葉は、そのみょうちくりんなスペイン語にかかわらず、ジーンときた。ルシェンブルゴは人の心を打つ話をすることで有名だ。言葉の壁を越えてそれができるんだから、すごい。
いまサンパウロ州選手権の優勝にもっとも近いルーシャのサントスFCだが、今年2月、昨シーズンのブラジル選手権で屈辱的な敗北(0-7)を喫したコリンチャンスとの試合直前に、パラリンピックに出場するために努力する身体障害者たちのドキュメンタリー映像を選手達に見せて気持ちを奮い立たせたという。結果、選手達は狂ったように戦い、サントスはコリンチャンスを下した。
ブラジル・サッカー広しといえども、ルシェンブルゴと肩を並べるモチベーターはいない。
バルサ戦がはじまると、ルーシャはせわしなくピッチ脇で動き回る。スタジアム上段のスタンドから、セカンド・コーチのマルコ・テイシェイラが、フォーメーションの問題点を刻々とルーシャに報告していく。その的確な指示に、思わず身を乗り出して観てしまった。やっぱ、プロはどんな解説者よりも、遙かにスゲエや。
他にも、たとえばアフリカの少年の物語があるが、これは、まさにラブリー。サッカーへの愛情が美しく表現されている。
なんといっても、レアルを代表する男たちが、一生懸命働いて勝利を勝ち得ようとしている姿に共感した。応援するクラブとは関係なく、普遍的なサッカーへの情熱がそこにある。
それ以外は、つまり映画の殆どはバカバカしい映像がいっぱいある。明らかに、ワールドワイドな営業を狙った内容で、クラブの金儲けの思惑がまさに露呈しているのだが、そんななか、僅かだが貴重な映像があるということ。
冒頭では、貴重な映像が20%といったが、いまのハリウッドのアクション映画も、せいぜい、こんなものだし、金を払って観る価値があるかどうかは個人の問題。あっしは、ほんと満足した。
往年の輝きを失ったいまのレアルだが、その資産はとてつもなく大きい、そのことを確かめることができてよかった。
追記:古いベルナベウの写真めーっけ!
